御所野の歴史文化を語る会会員の寄稿

◎三浦吉助氏(当会前会長)
 戦争が烈しくなるにつれて、昭和19年1月「緊急学徒勤労動員方策要綱」によって学徒動員が本格化し、同20年3月には「決戦教育措置要綱」が閣議決定された。国民学校初等科を除いて全ての学校は、原則として4月1日から1年間停止することとし、「戦時教育令」と「同施行規則」を交付するに至り、勤労青少年教育の制度は形式的には整備されたにもかかわらず、教育内容の面ではかえって後退しながら終戦をむかえる結果となった。
 戦後の昭和22年3月、新たに「学校教育法」が交付されて、従来の「国民学校令」、「青年学校令」は廃止された。そして、新制中学の義務制が実施され、実業補習教育は新制高校の定時制課程へ受け継がれることになった。
 青年学校教員養成所については、昭和19年2月「師範教員令」に改正を加えられ、府県立青年学校教員養成所を師範学校の一つとして官立に移管することになり、四ツ小屋教員養成所は廃止されて「官立秋田青年師範学校」と改称された。
 次いで昭和24年5月、秋田師範学校は秋田大学に改組したことから、青年師範学校も秋田大学に包括されることになった。たまたま四ツ小屋村の善意によって設立を見た青年学校教員養成所の歩みが、こんなにまで変転を余儀なくするさまは、何とも悲しくなるような気がしてならない。時代をつくるわれわれ一人ひとりが、しっかりと社会を支えなければならないことを痛感する。



開発工事中の秋田青年師範学校跡地

◎藤原立宏氏(当会会員 平成11年9月15日記)
 ~青年師範学校について~

 私たちが学んだ「青年師範学校の概要」と「校舎周辺の激しい変貌」について述べてみます。
【青年師範学校の概要】
 私は、昭和20年4月、秋田青年師範学校に入学(40名)し、22年2月卒業しました。戦争中に入学し、在学中に終戦を迎え、戦後の混乱期に卒業するという、激動の時代に学校生活を送りました。  昭和10年4月、前身の青年学校教員養成所(就業年限2年・定員30名。県農事試験場に併設)が発足し、16年7月、御所野台地南西の端に独立の新校舎ができてそこに移転しました。18年2月、「師範教育令」により秋田青年師範学校(修業年限3年)と改称されましたが、戦後、23年限りで青年学校が廃止されたので、青年師範学校も26年3月、廃止になってしまいました。9年の間、時代の荒波に揉まれ続けた悲運で短命な学校でした。
 54年前、寮生活も経験し、思い出の多い学生生活を過ごしましたが、よもやそこが先住民の住居跡があった場所とは全く知るよしもありませんでした。資料によると、地蔵田A遺跡のC地点に校舎や寮が建ち、B地点にグランドが、狸崎B遺跡地点に実習農場があったわけです。



寄宿舎(南寮)
(『創立百年史 秋田大学教育学部』より)

【校舎周辺の激しい変貌】
 私が遺跡発掘に関心を持ったきっかけは、今から9年前、「校舎独立五十周年記念誌」を編集するように先輩から依頼された時からです。同窓の皆さんに校舎の現状を伝えるために現地に足を運ぶ必要が生じました。そのため、3回校舎(跡)を訪れました。
・一回目(平成2年9月15日)
 ひっそりと静まりかえっている無人の校舎。半世紀の長い間 風雨に晒されてきた痛々 しい姿に、胸がしめつけられる思いがしました。
・二回目(平成5年11月3日)
 校舎は取り壊されて跡形も無くなっており、グランドを含めた校地一帯は表土が綺麗に剥ぎとられて草一本ない裸状の発掘現場と化していました。
・三回目(平成10年7月1日)
 遺跡は完全に埋め戻されて姿を消し、運ばれてきた黄土がうず高く積まれ、宅地造成の真只中でした。ここら辺に校舎があった筈だと思われる地点に、ヤマザクラの木が一本忘れられたかのように寂しげに残っていました。ここで感きわまって三句作りました。
  1. 轟音を響かせ進む ブルドーザー 御所野台地は いま変容す
  2. 影暗き 御所野の森は 変わり果て 黄土一色の 造成地となる
  3. 学び舎の 跡にひともと ヤマザクラ 変わる姿に 何を思わん
 現在は、青年師範学校の所在地を知る手がかりになるのは、この一本のヤマザクラの木だけとなりました。この木は、玄関の近くに生えていたもの(昭和40年代に植えられたものか?)で、この木を中心にして懐かしい校舎や寮や農具舎などの位置を思い描くことができます。この一本の木が残ったことは、私には奇跡としか考えられません。ときどき、このヤマザクラの木を訪ねて当時のことを偲びたいと思っています。今年(平成11年)の4月29日、花が満開でした。





秋田青年師範学校跡地に残る桜の大木
(平成11年4月29日)

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